江華島(Kanghwa-do)

 江華島(拡大地図を開く)は地図で示されるように漢江の河口にある島で、広さは293kuで、淡路島の約半分の広さです。平地が少なく畑地が多いことから、特に朝鮮人参(韓国では高麗人参と呼ぶことが多いようです)の栽培が盛んなところです。また、首都ソウルから50qほどの距離にあり、近年では観光地として開発が進んでいます。
 この島をめぐる日本と朝鮮との歴史では、1875年に日本の軍艦がこの島に接近して起こった江華島事件が有名です。この事件を機に日本は日朝修好条規を結ばせ、朝鮮は開国することになりました。実はそれ以外にも、この島は朝鮮半島の歴史に重要な役割を果たしてきた島です。そのいくつかを紹介したいと思います。

  多くの砲台〜近代朝鮮の始まりとの関係で〜
 皆さんも知っているように、1853年にペリーの浦賀への来航が日本の開国のきっかけになりました。翌年日米和親条約をはじめとする条約を西洋諸国との間に結び開国したのです。当時の朝鮮は日本と同じような外交政策をとっており、外国との自由な交易を認めていませんでした。朝鮮半島は東北アジアの中では中国や日本に比べて少し奥まった位置にあり、西洋諸国の関心も日本や中国へのそれと比べて、さほど強くありませんでした。しかし、日本が開国すると西洋の関心も朝鮮に向かい始めました。
 1866年にはフランス軍に江華島が一時占領されますが、やがて朝鮮軍はこれを撃退しました(丙寅洋擾-ひのえとら)。また、1871年にはアメリカ軍に広城鎮が占領されますが、これも撃退しました(辛未洋擾-かのとひつじ)。地図でわかるように江華島は都である漢城(現在のソウル)へ漢江を遡る河口にある島なのです。これを浦賀と江戸の位置関係(地図を開く)と比較すれば良く理解できることと思います。浦賀には江戸湾に入ってくる船を監視する幕府の役所がありましたが、江華島はちょうど朝鮮における浦賀の役割をはたす場所で、漢城を守る重要な軍事拠点だったのです。西洋諸国が朝鮮の開国に失敗した後に、日本の軍艦「雲揚号」が何故、江華島に接近したかといえば、日本側の挑発に応じた朝鮮側の反撃をきっかけに開国のための交渉に持ち込むためだったのです。
 江華島には防御のためにいろいろな施設が置かれました。現在ではそこに砲台などが復原されて観光地となっています。韓国にとっては、この島は近代における西洋や日本の侵略の開始を象徴する場であり、それに果敢に抵抗した場として、意味を持つところと考えられているのです。

  大蔵経〜モンゴルの侵攻に際して〜
 江華島と本土は200〜300mしか離れていません。そのため現在では本土との間に橋が架けられていて、自動車で渡ることができます。けれども南北に分断された朝鮮半島では、江華島は韓国と朝鮮の軍事境界線のすぐ南にあり、筆者が10年ほど前に訪れた時には、この橋にも海からの侵入によって橋を攻撃されないように、網が海底から海面まで設けられていました。
 ところで、1274年と1281年の2度わたって、元軍が日本に攻めてきたことは良く知られた事実です(元寇)。元はこの戦いに際して、服属した当時の高麗に多くの船の調達を命じ、その負担は過大なものであったといわれています。関心があれば井上靖の『風濤』という小説を読んでください。高麗は1231年から1270年まで、数次にわたるモンゴル軍の侵入を受けました。高麗は1232年から江華島に都を移してモンゴル軍に抗戦を続けたのです。騎馬による戦いに優れたモンゴル軍も、狭い海峡を隔てた江華島を船を使って制圧することは困難を極めたようです。
 仏教が重んじられた高麗では、この間に仏の力をかりてモンゴル軍を追放しようと、仏教全集ともいうべき『大蔵経』が木版で刊行されました。高麗ではいくつかの木版による『大蔵経』が刊行されていますが、モンゴル軍の侵入に際してつくられたのを『八万大蔵経』といいます。高麗は江華島に大蔵都監という役所を設置して15年の年月をかけて、『八万大蔵経』が作られたのです。
 こうして、江華島はモンゴルへの抵抗という民族的な苦難を象徴する場にもなっているのです。

  摩尼山〜檀君神話に関わって〜
 世界各地の民族や国家には、概ね自らの始まりを説明する伝承や神話が伝えられています。比較的新しいところでは、アメリカ合衆国の建国起源で、信仰の自由を求めてイギリスからやってきたピルグリム・ファーザーズが、プリマス植民地建設に際してメーフラワー号の船上で盟約をかわしたことが、そうした例です。時代が古くなればなるほど、事実とは無関係な神話が国家の始まりとして使われることが多いようです。日本では『古事記』や『日本書紀』などが伝えるイザナキとイザナミによる日本列島の形成、皇祖神とされるアマテラスオオミカミ、神武天皇の東征伝説などがそれにあたります。
 朝鮮半島では13世紀に編纂された『三国遺事』が伝える古代の朝鮮王朝の起源が知られています。檀君神話が伝える古代朝鮮王朝の起源は次のようなものです。
  4000年以上前のこと、天帝桓因の子、桓雄が3000名の従者をひきいて、天上の宮殿から 下界にくだってきた。その場所は、半島の中心部にそびえる太伯山(現在の白頭山)の頂にた つ神檀樹の下だった。彼は自然の秩序をつくり農業をおこした。そして法の制定、道徳の教 授、善悪の区別など人間に関する360あまりの事業をつかさどった。ある日、桓雄は洞窟の 中にすむクマとトラが人間になりたがっているのを知り、ヨモギとニンニクを食べ、100日 間、太陽の光にあたらずにくらすように命じた。忍耐力のないトラは退屈に我慢できず洞窟 をとびだしてしまったが、クマはいわれたとおりにして21日目にうつくしい女性になった。 結婚の相手がなく悩んでいたクマに対して、桓雄は自らの姿をうるわしい青年にかえて、2 人は地上最初の夫婦となり、男児をもうけた。それが父の後継者となり、古朝鮮の創建者と なる檀君で、彼は前2333年に国をひらき、国名を朝鮮とした、というものです。
 江華島の摩尼山(468m)は、朝鮮の始祖神である檀君が降臨したる聖地とされています。19世紀末になって民族運動が高揚すると、檀君は朝鮮の始祖神として信仰されるようになり、有力な民族宗教が成立しています。また、1961年まで韓国では檀君紀元(西暦に2333年を加算)が使われていました。このように、檀君神話に関連して、江華島は建国神話の中心的な場所の一つとして、民族主義を高揚させる場にもなっているのです。


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