右の切手は縦22ミリ、横19ミリの大きさで、1982年以来、韓国で発行されている200ウォンの切手です。
図柄からもわかるように記念切手ではなく、普通切手です。
図案の人物は安重根(1879〜1910)で、韓国や朝鮮で民族運動の義士として知られている人物です。
彼は1894年に朝鮮で起こった甲午農民戦争では、父と一緒に政府側にたって農民軍の鎮圧にあたる義兵
として戦いました。
1895年にはカトリックの洗礼を受けています。
日露戦争を契機に日本は韓国に対して次第に圧迫を強めますが、
1904年平壌にでた安重根は愛国啓蒙運動に接して、
日本の圧迫から韓国の権利を回復するための運動に積極的に関わっていきます。
愛国啓蒙教育のために学校を設立したほか、1907年からは日本への武装闘争を行うための義兵を組織し、
中国の北間島からロシアのウラジオストクに移りました。
1963年から1984年まで発行されていた千円札に使われていた肖像は伊藤博文(1841〜1909)です。当時発行されていた紙幣に登場した人物は一万円札と五千円札が聖徳太子、五百円札が岩倉具視(1825〜1883)でした。1400年前の聖徳太子を除いて、伊藤博文と岩倉具視は幕末から明治時代に活躍した人物です。
岩倉具視は天皇制の基礎を固めると共に、大日本帝国憲法の基本構想を作った人物として知られている人物です。伊藤博文も初代の内閣総理大臣であり、大日本帝国憲法の起草に重要な役割を果たしました。伊藤を紙幣の肖像として登場させた理由としては、アジアで最初の立憲制度を確立させた彼の役割を評価したことがあるように考えられます。
日露戦争は満州(現在の中国東北部)と朝鮮半島をめぐる日本とロシアとの戦争でした。韓国も中国と局外中立を宣言しますが、日本もロシアも無視しました。戦争中の1904年に日本は韓国政府に日本政府の推薦する外交顧問(外国人)と財政顧問(日本人)を置くことを認めさせます(第一次日韓協約)。そしてポーツマス条約などを背景に1905年、第二次日韓協約を結ばせて、韓国の外交権を奪って保護国としました。そして、日本は保護権を行使するために漢城(現在のソウル)に統監府をおいて、初代の統監として伊藤博文が任命されたのです。
この第二次日韓協約に韓国は強く反発しました。1907年、オランダのハーグで万国平和会議が開かれましたが、韓国皇帝の高宗は日本の圧力下で調印された協約が不当であることを訴えるために、密かに使節を派遣しました。しかし、こうした努力は無に終わり、逆に日本は高宗にかえて純宗を即位させるとともに、行政権も奪う第三次日韓協約を結ばせ、さらに軍隊も解散させました。軍隊の解散が日本への義兵による武装闘争を拡大させる大きな引き金になりました。武装闘争は朝鮮半島内から中国やロシアとの国境付近、あるいは中国、ロシアなどを拠点に行われるようになります。
統監である伊藤博文は韓国を保護国のままで継続させようと考えていたようです。しかし、義兵闘争がいっこうに減る様子がないことから、日本政府内に伊藤の方針に反対する力が強まり、伊藤も併合の方向に路線を修正していきました。1909年6月伊藤は統監を辞任しましたが、翌月に政府は韓国併合の方針を決定しました。
ウラジオストクを拠点とする義兵闘争に参加した安重根は大韓義軍参謀中将兼独立隊長として1908年以後朝鮮半島で日本軍との戦闘をたびたび指揮しています。統監を辞任して枢密院議長となった伊藤博文は1909年10月26日、日露交渉のために満州のハルピンを訪れましたが、彼が来ることを知った安重根は暗殺を決意して、列車で到着した伊藤博文を駅頭で射殺したのです。安重根はその場で逮捕され、関東都督府旅順地方法院で死刑判決を受け、翌年3月処刑されました。旅順監獄で安重根が1910年2月(処刑される前月)に書いた「獨立」という遺墨を、看守の子孫が密かに保管してきました。今年(2000年)の夏になって、その遺墨が韓国で公開されました。こうした記事が日本の新聞やテレビで報じられました。
韓国や朝鮮では伊藤博文を暗殺した安重根は、抗日運動の英雄の1人とされて高く評価されています。このことから安重根を切手の肖像として採用したのだと思われます。抗日運動を高く評価する韓国の見方は、植民地支配を経験した歴史を背景にしています。日本国内の政治の近代化を推進した伊藤博文も、朝鮮半島の人々にとっては植民地支配を推進した中心人物の1人として記憶されているのです。植民地支配を行った側は、植民地支配というフィルターも通すことで、日本国内の業績だけではないところも含めた歴史の評価が必要であることを教えてくれます。